友田先生は『原出雲国は福井県三方郡と遠敷郡の一部である』とされています。天孫降臨の一行が原出雲国の国譲りを要求すべくやってきた、とするならば当然原出雲国の近くに橋頭堡を築いたはずです。また友田先生は高天原は敦賀市と今庄町との境界にある鉢伏山である、とされておられるのですが、瓊々杵尊の上陸地点に着いては特定されていません。私は瓊々杵尊の上陸地点は越前海岸から敦賀湾の東側の海岸にかけてであろう、と考えました。このあたりの伝説、伝承について調べたのですが、河野村村史大谷浦に天孫降臨に関係する、と考えられる部分があり次のような記述があります。
(1) 大谷浦には地字名として瓊々杵畑(35号)事社の木(37号)神事平(63号)天神坂(88号)などがあり、神社とは無関係ではないだろう。(事社には、土地の神を祀る、という意味があります)
(2) 神社として、八幡神社、春日神社、磯前神社、祖霊社、藤原神社、大山神社、鴨神社と現在7社も存在する。神社の数から推すのに、時代毎に統治者が入れ替わったか、村民に移動があったのかは定かではないが、社が余りにも多すぎる。
(3) 奈良時代、大谷浦は敦賀市気比宮社領として、塩、わかめ、魚類など久しく共進した。
(4) 奈良時代の河野村について
敦賀から越前には入る道には山中ではあるが「積石」の石橋が3ヶ所もあり、この頃には海の彼方からこの辺りに、多数の来航者が隠棲し、彼らは持つ高度な知識を提供し、石橋が架せられたわけであった。
この河野村史に記録されている(1)(2)(3)については関連性があり、(1)の瓊々杵畑という地名は、瓊々杵尊が実在されたからこそ、このような地名が残っているのでしょう。(2)の社があまりにも多過ぎる、というのは実際に天孫降臨があり、神話に登場する神々もこの地に滞在されたからであろう、と考えます。
(3)の大谷浦が敦賀気比宮社領であった、というのは、天孫降臨の一行が土地の神への供物を奉じたのが始まりであろう、と考えます。「気比」について意味を調べてみますと、(白川静著字統)「気」には『おくりもの』の意味があり、「比」には『したがう・したしむ』の意味があります。大谷浦が気比宮社領であった、というのは「気比」の字の意味が示しています。
(4)については、大谷浦が天孫降臨の最初の到着地とするならば、大陸からの渡航者がこの辺りに多く住みついていたのは当然のことで、石工だけではなく製鉄の技術、漢字の知識など当時にとっては高度な文化が天孫降臨と共に入ってきたものと考えられます。
(2)の祖霊社ですが、祖霊社こそ天皇家の先祖を祀る社であろう、と考えたのですが現在は場所を特定することは出来ません。社殿として残っているのは春日神社と八幡神社だけのようです。
藤原神社は集落の上を之の字形に山道を30分ほど登ると暗い森の中に石の鳥居を見ることができます。鳥居に藤原神社、と札が掛かっているのでそれ、と分かるのです。
大谷浦は前の日本海、背後に山を背負い、崖へへばりつくようにして家が建っている、といったところで前方に敦賀半島の先端部を見ることが出来ます。冬季には西風がまともに吹きつけ、河野海岸有料道路が出来るまでは陸の孤島とまでいわれたところであります。大谷の向山家の古文書には「藤原朝臣」と書かれたものがありますが、代々伝わる仏像の裏には「藤原頼某」と書かれています。向山家の遠い先祖は、奈良平安時代の権力者、藤原家の一族であったでしょう。
藤原家の先祖は、天孫降臨のアメノコやネノ命とされています。この陸の孤島とまで言われた辺鄙な地に、藤原家の一族が住みついているのは天孫降臨の地であり、大変重要な地、と考えられるからでしょう。
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